昭和47年11月17日 朝の御理解
御理解 第24節
「人に誘われて、しょうことなしの信心は、つけ焼き刃の信心じゃ。つけ焼き刃の信心は取れやすいぞ。どうぞ、その身から打ちこんでの真の信心をせよ。世に勢信心ということをいうが、一人で持ちあがらぬ石でも、大勢かけ声で一度に力をそろえれば持ちあがる。ばらばらでは持ちあがらぬぞ。家内中、勢をそろえた信心をせよ。」
どうぞその身から打ちこんでの真の信心をせよと、むらにちこうても真の信心に打ちこまなければならない。ただ信心からもしおどおどの事をね、真の信心をせよとね、果たして毎日お日参りのおかげを頂いたり、朝参りをさして頂いたりさして頂いとるが、果たして真の信心に打ちこんでのお参りだろうかと。安心していたとかね、世に勢信心と言う事、いわゆる大勢が掛け声を揃えて重たいものでも、持つと一人では持ち上がらぬ石でも持ちあがるという道理であります。
ですからここに沢山な人が、大きな重たいものに取り縋っておると言う事は、かえっておかしいだけではない、家族中が勢を揃えたというても、家では皆んなが金光様の信心しょります拝みよりますというても。ただ縋っておると言うのであってはね、力にはならない、いやならないどころかかえってこう引き落とすような感じですね。勢を揃えた信心をせよと、めいめいが何がなしかの力を持って、しかも本気でそれを持とうという気になる事が、勢信心と言う事になる。
だからそう言う例えば小さいものの力であっても、それが10人寄れば100人寄れば一つの大きな力になると言う様に、それは何がなしかの力になっとかなければならない。けれどもそれが力ではなくて、中にこうやってかえってぶら下がっとる。それではかえって重荷になる様な事になるのです。これは家族勢を揃えたとしてますから、家族中のものがそういう使命を果たさなければならないのですけれども。ならそれはどこに焦点を置くかと言うと、どうぞその身から打ち込んでの真の信心と仰る。
家族中のものが真の信心に打ち込んどらなければいけない。ただ家族中が拝みよりますと言うだけではいけない事が分かります。それからと言うてどうかお前も信心してくれと言って頼んだような信心では、頼まれた時だけであって、それはつけ焼き刃の信心だとこういう。だあらその身から打ち込んでのと言う事、ですからその身から本気で打ち込めれる信心を願いとしなければならない。長年信心しておっても子供が付いてこないとか、家内が付いてこないとか、しんで信心にない人が様々にあります。
ですけれどもそこにその本人がね、本気で打ち込ませて頂かなければ、ぶれない様な信心を願わにゃきゃいけん。そこからめいめいが打ち込んだ信心ということになる。あのう幹三郎がああいう肉腫と言う様な、まぁいうならたちの悪い病気に掛かって、お医者さんの全部が駄目だと言われた程しの病気を致しました。それこそもう富永先生と野口さんに、お母さん今度の幹三郎君の病気は、もう私どん医者が診てから百のものなら99%は駄目ですと。あとに一つ残っておるそれはもう奇跡ほかありません。
しっかり拝んで下さいと言うて言われたと言う事でした。その時に皆さんここの御信者さん方が一生懸命に信心をして下さいました。私はあぁいう信心があのう勢信心だと思うですね。毎日毎日あるときに沢山の人達が、同じ時間に同おんなじ祈り祈りの元に、どうぞ助けて下さいと言う願いをかけられた。それを私がお届けさして頂いた訳なんですけれども。本当にま奇跡と言うより他にないような、おかげをこうむらして頂いた。そこから例えば本人も、僕は教会に生れておるけれども。
お道の教師にはならない、住んではおりますけどもお道の教師にはならないと、言うておりました幹三郎が、自分んから進んでお道の教師にならして頂く、学校をやめて学院に行くというて、おかげを打ち込んで参ります事になった。いわゆる親が子供の事、そりゃ聞き流しておりますよね。僕はお道の先生にゃならんと、しんじられません、けども親の長いというもの、はやはり教会の子弟としておかげ頂いたのだから。
いうならここに5人の例えば子供がおるとするならば、ここに5つの教会がでけなけねばならない。一つの教会に100人助かるならば、5人もおれば500人の氏子が助かる事になるのだから、これがが親の願いでないはずがない。そういう願いを持たせて頂いとるところから、そげなこといいうちから、お前は教会の息子でありながら、金光様の先生にならんちゅなんてん、そげんこたぁできん。さっち学院にいけというのが仕方がない。いわゆるつき焼き刃の信心ではないかと。
学院などにはもうそう言う様な手合いが随分多いらしい。先日の西岡さんから手紙がこうした中にもです、半分はまぁいうならしょうこと無しの信心で済ましているようでいつも問題をかもしておる。半分は本気で打込んだ信徒がいやぁ学院生はおるけれども。ここに一つの不思議なその現象と言うのはね、若い世代いうならいつも( ? )幹三郎中心にした、若い手合いがその人達が真剣にその人達の部屋に行くと、いつも真剣に信心を語り、いわゆる神を語っておると言う様な日記が書いてある。
それを聞いて有り難いと思う。いわゆるその身から打ち込んだ信心をする事になった、それをそこに死ぬるか生きるかと言った様な、大変な本人としても事になり、まぁ親としてもそう言うところを子供が通るのですから、嬉しくないといやぁ嘘になる。けれどもそこんところを神様に日頃お願いさして頂いておる事が、この様な事で成就しておるんだという、お礼を申し上げれる様な信心。本人が手術が終わりましてから、なんちなんち間か経ってからですかね。
いちいちものが出ませんから書かなければ、便所に行きたいとかあれを取ってくれとか。どうといろいろ書いて一番初めに書いておるものが、頑張ります親先生これが一番口です。取っとります。とにかく麻酔をかけておるから、本人は全然気が付かなかったかと思うたら、もう自分は半分な覚えとったっち。後で言うとりますね、もうそれこそまぁ彼は彼なりに決死のものでしたから。やはり決死な思いで神様に本人としても、お縋りしたことだろう。
それがなら本人だけの信心ではどうにも仕方がなかった。親だけでの信心でもどうにも仕方がなかった。そこに例えばこの信奉者の皆さんが、あれだけ沢山な人達が、しかも同じ時間に同じ場で一生懸命真心を奉っての勢祈念であった。そう言う事が私は勢信心だと思う。ただ幹三郎さんがそんな訳げなから、お付き合いで例えば御祈念をすると言った様人はあの時には一人もいなかった。同じ様になされた時はそれからが信心。その事によって合楽のいうなら信心が一段とこう鍛えられたと言う程しの感じであった。
まぁ一例を言うと智子さんなんかはもういわば信心が、もういうならば明けても暮れてもです、どういう煩わしい事があっても、どういうきつい事があっても、どういう苦しい事があっても、それが幹三郎さんが全快されるおかげになることならば、これを修行とさせて頂きますと言う様な信心をなさった。当時自分中心の事ではいかんことでしたけれども、よそに例えば加勢に行かれるでも、これはもう幹三郎さんが良うなりなさる事の修行と思うてお手伝いに行く。
茶碗ひとつ洗わさして頂くでも。一生懸命茶碗洗いながらこれが幹三郎さんの全快につながる事ならば、と煩わしさせからしいとか、きついとか苦しいとかと言う事を全然感じんで済む程しの、それは感じる感じるけれども、それは幹三郎さんの病気が治られる事のために、修行と言う様なちょうど退院して参ります時の、その13日会にもめいめいがもう一人一人が、幹三郎の事について祈られたと言うお話ばっかりでしたねあの時は。皆さんも覚えとられますかここのお広前にでしたが。
もう一人一人がほかの話はなかった。幹三郎さんが全快された事の喜びと、そのことに掛けたお互いがその信心を語られた。私はその身から打ち込んだ信心とか、真の信心と言うのはそういう事じゃないかと思う。自分の事じゃない、いうならそのここの他人の事のだれかれの事のためのです、自分の大事なものを投げ打ったり、または自分の日々の苦しいことやら辛い事を、そのままそのことのおかげが成就することのために、修行と思わせてもらうと言う様な生き方。
そういう信心が私はその身から打ち込んだ信心であり、または真の信心をせよと仰る、真の信心だと思う。教会をあげてのいうなら大一斉勢信心の、あれは一つの手本のようなものであってとこう思う。なるほど親の信心だけでもどうにも出来ない、本人がいくら命懸けで願たってどうにも仕方がない。親の信心もさることながら本人の信心もなるほどね、一生懸命にそれこそ親先生頑張りますと、ここまできつかつを堪えると言う事だけじゃなかったろうとこう思う。
それに沢山な信徒の方のいわゆる影の祈りというものがです、実を結んで全快のおかげを頂いた。その暁にはどう言う事になったかと言うと、今までの心を翻して学校はもうこれで中途退学さしてもろうて、今年から、来年からですかねこのう次の学院の、学院にやらしてもろうて、神様に助けて頂いた生命を、神様にお喜び頂ける様な御用に、お使い回し頂きたいと言う決心を生んだ訳である。見事にいわゆる勢信心である、大勢の人達が力を揃えてしかもこの真の信心。
真の信心に焦点を置いて、しかもぶらさがるのではなくて、本気でめいめい持って居る力の、言うならば全てをそこにかけて、いうならば持ち上げられたと言う感じ。あれが幹三郎の全快のおかげ。だけではない彼を教師にさせねばおかんという働きが生まれたと思うのです。ですからそこがそんなら家庭の中に様々な難儀というものを、感じたり持ったりお互いしておりますのですから、そういうあ互いが一生懸命になれれる様な、ものを与えられておるのでございますから。
お互いの心がそこに一つになって結集されて、一度に掛け声を揃えて持たせて頂くと言う様な、信心にならせて頂いたらおかげの頂けない筈のものを、普段持ち上がらん筈のものでも、持ち上げる事の出来る様なおかげを頂かにゃとこう思う。とそう言う意味でです本気で家族が勢を揃えた信心を、やはり切実に願わなければいけない。そしてそこに難儀な問題なら難儀な問題が起きた時にです、その難儀な問題を通してですね、その身から打込んだ信心をなら家族の者のが、さして頂けれるおかげを願わなければならない。
昨日、日田の綾部さんの所の長女の、てるこさんの今度お嫁に行かれますから、それのお別れの披露の宴がございました。その事を私お願いさせて頂いとりましたら、神様からひたすらにと言う事を頂いた、だからひたすらにと言う事はどんなにでも使えるんです。それで私はそれから頂かして頂いたんですけれども、例えば夫婦愛というものがです、ただ若い時だけのものと言う様なものであったり、いわゆる肉体愛だけであったりと言う様な事では、たとえお互いが長生きをしての、100までもわしゃ99までという頃にあってもですね。
それは一生がただ苦労の連続であったと言った様な事で終わったんではいけない。夫婦愛というものは段々育っていかなければいけない、段々器ものになって行かなければいけない。段々高度な愛になっていかなければならない。それがどういうところから破綻が来たり、それで別れ話が出たり、様々な難儀をと言う事になって来る夫婦の事でもです。結局お互いがね、ひたすらにその人のために祈り、ひたすらに愛し続ける、ひたすらにと言うものが掛けておるからだと思うです。
私は昨日はこのひたすらにと言う事をに、大変な何かそのう強い力というものを感じました。お互いがなら今日の御理解で言いますとですね、家族の中にだれかれが信心してくれればいいけれどもと言うて願いをしょるけれどもです。ひたすらにというものが欠けておるのだと思うです。ひたすらに祈り、ひたすらに愛し、愛する者のためにひたすらそうした信心がなされる時にですね。もう破綻の来る隙がないです。これならだんだん今日の夫婦愛というものが生まれ来ると思わせて頂きます。
ひたすらに願う、ひたすらに祈る、ひたすらに愛し続ける、向こうが良ければこっちも愛するというのではなくて、たとえ相手がどうであっても、こちらの心がもうひたすらに愛し続けるひたすらに。しかもひたすらに祈る、ひたすらにその事に一途ないわば情熱を傾けるとこういう。いまここへ素晴らしい頂いた、二本の手紙が来ておる、いまのでしたかいま封を切らして頂いて、読む時間もありませんけれども。
只あそことささっと読まして頂いたら、二本とも和賀心時代をつ創ると言うお書物を読まして頂いての感動を、こう手紙にしなければ居られないものを感じて。ここひとつなんかはこりゃ安東さんですけれど、13日会の日に和賀心時代を読まれましたか、という問いに対して読んでいなかった、じゃ早速帰って読ませて頂いた。読ませて頂いて驚いた。この様な素晴らしい、この様な有り難い、これから私の信心をいよいよ勇気づけてくれれる御本だと分かった時に、もう帰ってから読んでからすぐ手紙を書いとるです。
そういう一つの衝動を感じる様なこういうもうこれ、大久保いわお先生銚子の教会の、いつもおかげの泉を拝読しておられる先生。それでこちらからおかげの泉と一緒に送ったたんでしょう、いわゆるその事のお礼をまぁ頂かれてまだ読んでおりませんけれども。ただその和賀心時代を拝読してと言う事が書いてある。そしてそこに筆を足らなければ居られない一つの衝動的なものをそのおかげの泉だけではない、和賀心時代を創るの方は感じておられる。私共がそういう例えば衝動とか感動と言った様なものが起きて来る。
そういう時が一番私は神様へ向かう時だとね、だからそういうチャンスを私共の心の中にお繰り合わせを頂いてですね。その衝動が起きると言ったそういう時にですね、私や本当の真の信心を願わなければいけないとね。衝動的に例えばこの時には一つでも書かなければ居られないと言う時に、その心を神様に向けなければ。ただ神様へそれを受けると言うだけではなくてです、そん時に真の信心を願わにゃいけんと思うね。その真の信心を願うところからです。
これは願わなければ頂けない言うなら実感というものがかえってくる。その実感を例えば家族勢を揃えた信心にならして頂きます様にと言う様な願い。ならして頂くと思うのです。誰でもね金光様の信心させて頂いて、合楽の御縁を頂いているほどしの人ならです、あら家の父ちゃんも参ってくれるといいけれども、家の息子も参ってくれるといいけれども、と言うたり思うたりしてる人ばっかりだと思うんです。いにゃもう私一人参りゃよかてなんてん思うてる人は無かろうと思う。
けれどもそれが本当に例えばそういう神様に通うような、いまわになって来ないところから真の信心を目してからの信心でないところからです、私はいつまってもバラバラ的ないわゆる、持ちあがるものでも持ちあがらない、様な事になっておる様な事なっておる様な事ないだろうかと言う風に思うです。家内中勢を揃えた信心、しかもただそこんところを家内中がただ金光様を拝みょうりますと言うだけでです、だったらそれがままバラバラであったり、言うなら真の信心と言うものがです。
その目当てでなかったらです、それはかえってその事にしがみついておる様なものである。もっての事にならない。と言う様にです今日はここんところを聞いて頂きましたですね。着き焼き刃の信心は取れやすい、だからどうぞ参れと言うたのでは着き焼き刃ですから、本人が本気で信心にならせて頂く、真の信心にならせて頂く本人が、意欲しての信心になるチャンスというものは、いつもざらにはない。それを私は幹三郎の例をもって聞いて頂きましたですね。
そういう生か死かと言った様な時に直面した時にです、これは親の願いであった祈りがです成就してきた、ですからそれをなら私が私の子供達の全部が、お道の教師にお取立て頂いて、そして5人おるならば5人の教会が出来なければならないと私は思うた。これは私が言うひたすら祈り願わして頂いておる事である。だからそれが一つ一つ成就して行くのじゃないでしょうかね。
どうぞ。